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'この世界'からは降りられない 朝井リョウ インタビュー

作家・朝井リョウさんと考える、SNSのある世界との距離の置き方。最新作『死にがいを求めて生きているの』で描かれる「平成の対立」というテーマから、この世界の漠然とした煩わしさの正体の話まで。

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自分らしさの多様性が否定される煩わしい世界

死にがいを求めて生きているの

朝井リョウさんと‘平成’という時代の対立について考える連載。続いては、インターネットとSNSが隆盛する社会の中で、ひとりの人間として社会との距離をどう保つのかを聞いてみた。

ここで朝井リョウさんの学生時代について聞いてみたい。平成という時代観の一側面である「オンリーワン地獄」。子供の頃から小説が好きだった朝井さんは、まさに平成の時代の中で、その「自分らしさ」や、周りの人との違いについてどのように感じてきたのだろうか。

「そもそも、小説を書くことが自分らしいと自覚したことはありません。周りのクラスメイトがゲームが好きだったり野球が好きだったり、そういうことと同じで、私は小説を書くことが好きでした。自分らしさについてあまり考えなくても良かったのは、自分が好きなものが偶然少数派だったということも大きいかもしれないですね。小説や物語を書く時間を確保することが、どの年齢の時でも最重要事項としてあったので、そのほかの人間関係などの悩みは、あったとしても二番手、三番手だったかもしれません」

「シンプルに好きなことをやり続けた結果」と言われるとオンリーワン地獄に苛まれている人たちからすればうらやましい限りだ。しかし、その好きなことを周りに誇示することもなく、むしろ隠していたというから意外だ。

「中学生までは周りに(小説が好きだということを)言っていました。小学校からの同級生ばかりでしたし、お互いにどういう人間であるかを分かっている状態だったので。高校に入学して初めて会う人ばかりになった時から、小説が好きであることは隠すようになりました。進学校だったこともあり、芸術や文化の話よりも勉強して偏差値を上げて判定をAに近づけるといった類いの話が中心だったので、単に、話してもあまり分かってもらえないと感じていたのだと思います」

そもそも「自分らしさ」とは自分の好きなこと、できることを自分で認める内面的な作業であるはずだ。それが、どうしても自己顕示や自己承認の欲求と結びついてしまうから「自分らしさ」がややこしくなる。朝井さんのように、単に「小説が好き」という自分を肯定していれば、あえて他人の同意や承認を求める必要はない。シンプルな話だ。

「本当に好きなものを隠して部活や学校行事に参加している間も、自分を抑圧していたという感覚はなかったように思います。ばかばかしいと思うことにもその場では従ってやり過ごす狡賢さがあったというか、都合よく人格を使い分けることにストレスを感じないタイプなのだと思います。会社員時代も、会社員として働いている時間は精神的に健康だったと感じます。会社員として辛いことがあっても、本当に傷ついているかと言われれば、小説を書くことが好きな自分が別にいるから、息の根を止められるほどは傷つかないという感覚でした。だから、小説がなかったら、小説が世間に好意的に受け止められるものでなかったらどうなっていたのだろうと考えると怖いです。自分はどこに感情を排出していたのか。それを他人への攻撃に向けない自信は全くないです」

そもそも人間はいろいろなコミュニティに属している。それぞれのコミュニティの中で自分の役割を担う。だから必ずしも「自分」というものが1つであるわけではない。朝井さんの「好き」に忠実で、自然体な生き方は、逆にそうできない人たちの世界にある「オンリーワン地獄」を浮き彫りにする。
まさに今の「オンリーワン地獄」は、「自分の中の多様性」を受け入れない世間の空気も多分に影響しているように思う。「人と違う」ということを求められるだけではなく、その違いをあらゆる局面で表明し続けなければいけないというプレッシャー。そうでないと「嘘つき」とか、「本気じゃない」とか「一貫性がない」と言われてしまう。そうした多様性を認めない空気を朝井さんは別の側面で感じている。

「今、都合よく自分の意見を変えたり、周りに合わせて適度な嘘をついたりすることが、とんでもない重罪だと捉えられている気がします。例えば『動物愛護の活動を始めます!』と宣言した芸能人がいたとして、5年前のTwitterの写真を持ち出されて『リアルファー着てたくせに』と糾弾される。一貫してなければならないという‘圧’を感じてます」

確かに、局面だけでなく「時系列で一貫性を求められる」という地獄。人間なんて、好きなことも、考えていることも変わる生き物であるはずだ。仲の良い、付き合いの長い人たちからであればそのような変化を理解されても、インターネット上だと経緯を一切無視されてしまう。平成の時代観といえば、まさにインターネットやSNSによって自分の中の多面性が否定され、より一貫性のある「正しさ」を前提とされてしまう空気がある。

「私は小説を書きたいわけであって、正しいことを書きたいわけではないんです。でも今、Twitterなどを見ていると、小説家にも意見者として一貫した正しさを求められている気がします。小説を書いていると人間の心は流動的であることにすごく自覚的になるので、『一貫して正しくあれ』という空気は苦手だし、そもそも不可能だと思っています」

小説家という職業に対する誤解もあるように感じる。誤解というか「過度な期待」。世の中に作品を発表しているのだから、それなりの「正しさ」をもって活動をしなければいけない、というような圧力。

「亡くなられた小説家の渡辺淳一さんと対談させていただいた際に、渡辺さんが『小説家は水商売』というお話をされました。対談前の私は、小説家は『先生』と呼ばれてしまうし、ちゃんとしてなきゃいけないと思っていたのですが、渡辺さんから『小説家は水商売で、売文業。正しい人間じゃないんだよ』という言葉を聞いて、すごくほっとしました」

「水商売」というのは世間の人気や嗜好に大きく依存する職業という意味で、つまり、ある小説が支持されるというのはあくまで世間の嗜好性に合っていた、というだけの話。正しいことを主張して支持されたというわけではないはずだ。小説とは、正しい人間が正しく主張をする場というわけではないのだ。

「正しい場所で正しいことしか書かないと言うのなら、もうどこでも、何も書けなくなります。私は『自分が間違っている』という感覚が強いので、間違った人間でも(小説を)書いていていいんだという気持ちになれたのはすごく有難かったです」

ひとりの作家が、まったく主張が異なるテーマの作品を発表していくことこそエンターテイメントとしての面白さがあるわけで、まして生身の人間でも朝令暮改みたいなことはいつだって起こる。それを許容できない窮屈さがはびこっているのが今の時代観のように思う。

「ダブルスタンダードって嫌がられますけど、そもそも人間ってダブルどころか、ハンドレッドスタンダードぐらいのもんだと思います。それぐらいの存在だということを自覚していれば、『リアルファー着てたじゃないか!』という言葉も手に握るまではしても投げつけないような気がします。ダブルやトリプルじゃなくて、ハンドレッドスタンダード。自分にも他人にも、潔白さは期待していません」

 

(第4回に続く)