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純喫茶から出版社のラウンジまで。広がる「滞在」のかたちも神保町の魅力

VOL.9 純喫茶から出版社のラウンジまで。広がる「滞在」のかたちも神保町の魅力

行列のできる老舗純喫茶、PCを開いて電源も使えるブックカフェ、出版社に併設されたラウンジのような空間——。「本の街」として知られる神保町では、いま“滞在する場所”のあり方が少しずつ変わっている。

かつて喫茶店が担っていた、読書、打ち合わせ、原稿読み、待ち合わせ。一軒の店に集約されていた“滞在”の機能は、街のなかへ広がり、多様化している。時代も変わり、この街に来る理由も変わっていくなかで、来る人が滞在する場所も変わっている。

純喫茶ブームの現在地とともに、神保町の喫茶文化の変化を歩いてみた。

行列ができる、“純喫茶の街”としての神保町

神保町を歩くと、人気喫茶店「さぼうる」や「ラドリオ」の前に並ぶ人の姿が目に入る。数年前に比べて目立つのは外国人の姿だ。日本の喫茶店の独特の雰囲気やメニュー、「tiny」(狭いという意味だが、この場合こじんまりとしていて可愛らしいというような表現だろうか)で面白いという声も多く聞かれる。
純喫茶ブームやインバウンド需要もあり、週末の人気店は観光地のような賑わいを見せている。

年季の入った外観、暗めの照明、赤いソファ。いまや、SNS上には「神保町の純喫茶」の投稿が溢れ、いわゆる“昭和レトロ”な空気を求めて、この街を訪れる人は少なくない。

一方で、平日の神保町にはまた違った表情がある。

ランチ時の「さぼうる2」(食事利用専用)には列ができていても、少し時間をずらせば、地下の喫茶店には静かな時間が流れている。出版関係者らしき人がコーヒーを飲み、ノートを開いたひとり客が長時間作業をしている。

「ミロンガ」のような老舗でも、観光客だけでなく、街の日常の延長として過ごしている人の姿がある。

いまの神保町には、“純喫茶の街”としての顔と、働く人や通う人たちの生活圏としての顔が同時に残っている。

かつて喫茶店は、出版関係者の仕事場だった

神保町の喫茶文化は、「本の街」の歴史と切り離せない。

出版社、古書店、大学が集まるこの街では、喫茶店は長く、出版関係者たちの仕事場のような役割を担ってきた。

編集者がゲラを読み、著者と打ち合わせをし、営業が空き時間を過ごす。大学生が議論をし、古書店帰りの客が買った本を開く。喫茶店は単なる飲食店ではなく、「長くいてもいい場所」として機能していた。

実際、神保町の老舗喫茶にはいまも独特の空気がある。重たい椅子、少し暗い照明、急かさない接客。コーヒー1杯で長居しても不自然ではない。

東京では、そうした場所のほうがむしろ少なくなった。

“滞在”の機能は、街のなかへ分散している

ただ、神保町の喫茶文化そのものは、少しずつかたちを変えている。

かつて一軒の純喫茶が担っていた役割は、いま街のなかへ分散しているようにも見える。
近年増えているブックカフェや書店併設型のカフェスペースは、その象徴だ。

この3月に満を持してリニューアルオープンした三省堂書店本店の「喫茶ちそう」には、読書だけでなく、PC作業やひとり利用もしやすい席が並び、電源付きの席も複数ある。

さまざまな目的の利用に呼応したつくりではあるものの、メニューはコーヒーだけでなく、クリームソーダやプリン、カレーなどのいわゆる“喫茶店メニュー”が並ぶのが嬉しい。こういった新しい場所にも、喫茶店のエッセンスが受け継がれていっているのだ。

また、「PASSAGE」のように、本を介したコミュニティをつくる新しいタイプの空間でも、昔ながらの純喫茶のような濃密な空気とはまた違う、“現代的な滞在”が成立している。

静かに読書をする人、オンライン会議前に立ち寄る人、作業の合間に休憩する人。かつて喫茶店のなかに集約されていた機能は、街のあちこちへ広がっていったといえるだろう。

出版社もまた、“場所”をつくっている

神保町では、出版社自身もまた“滞在の場所”を街に開いている。

日本を代表する海外文学、SF、ミステリー文学の最大手出版社・早川書房の本社には、ミステリー文学の巨匠アガサクリスティの名を冠した「サロンクリスティ」が併設されている。

「サロンクリスティ」は、喫茶室でありながら、執筆や読書、イベントなども含めた文化的なラウンジのような役割を持つ空間だ。

早川書房の関係者や訪問客も訪れる一方で、早川書房が多く出版するミステリー小説のファンも多い。

店内にはアガサクリスティの関連書籍やグッズも多く置かれ、ミステリーファンならずともその世界観に触れられる。

もちろん、メニューは定番の喫茶店メニューがラインナップされ、しっかりランチをとることや打ち合わせも可能。ここに篭ってハヤカワ文庫を読むこともできるのだ。

働き方が変化し、打ち合わせのリモート化が進み、紙中心の仕事環境が少しずつ変わっていくなかで、“街のなかで働く”感覚はむしろ増しているのかもしれない。

小学館ビル内のカフェも、出版関係者だけでなく、街を訪れる人たちが自然に立ち寄れる場所になっている。

神保町では、本屋だけでなく、出版社もまた「場所」をつくり続けているのだ。

老舗喫茶の空気を支える、若いスタッフたち

もうひとつ印象的なのは、老舗喫茶の空気を支えているのが、必ずしもその時代を知る人たちではないことだ。

喫茶店の渋いマスターとカウンター越しに会話を楽しむ……。そんなイメージがあるが、実際にそういった店は神保町でもなかなか見かけない。学生街でもあることからか、神保町の喫茶店は、若いアルバイトスタッフが中心になって店を回しているところが多い。キャッシュレス決済にも対応し、海外からの来店客を案内しながら、それでも店の空気はどこか昔のまま保たれているのが不思議だ。

神保町の喫茶店は、「変わらない場所」として語られがちだ。けれど実際には、新しい客層、求められるメニューをも受け入れながら、少しずつ更新され続けている。

保存されているというより、変化しながら続いているといえるだろう。

神保町ではいまも、“座って過ごす場所”が更新され続けている

行列のできる純喫茶、本屋に併設されたカフェ、出版社が街に開くラウンジのような空間。かつて一軒の喫茶店が担っていた“滞在”の役割は、いま街のなかへ広がり、多様化している。

読書をしたい人も、打ち合わせをしたい人も、ひとりで作業をしたい人も、ただ少し休みたい人も。神保町には、その時々の目的に合わせて座って過ごせる場所がある。

だからこの街には、一度きりではなく、何度でも通いたくなる理由があるのかもしれない。

喫茶文化のかたちが変わり続けること自体が、神保町の新しい歴史を、また少しずつつくっている。