神保町のグルメといえば「カレー」を思い浮かべる人も多いだろう。しかし、この街は、和洋さまざまな飲食店が点在し、舌の肥えた知識人を唸らせる名店がいくつもある、グルメの街でもあるのだ。今回は、年間600軒以上を巡る美食ライターの伊藤初美が、神保町の注目の名店をレポートする。
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■プロフィール
伊藤 初美(いとう・はつみ)
年間600軒以上を巡る美食ライター/グルメコミュニティ「東京グルメサロン」主宰
「本当に価値ある食体験」を求めて、年間600軒を超える食べ歩きを継続。その圧倒的な経験値をベースに、独自の視点で美食の情報を発信している。
主宰する「東京グルメサロン」では、シェフの想いに触れる食事会や、地方の食を応援するイベントをプロデュース。食を愛する仲間と共に、今の時代にふさわしい「豊かな食の楽しみ方」を提案し続けている。
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私にとって「通いたくなる街」とは、単に美味しい店が多い場所ではない。そこに、自分の今の気分を受け止めてくれる「温度」があるかどうか。
これまで数え切れないほどの街を歩き、暖簾をくぐってきた。刺激的な最新スポット、背筋が伸びるような一流店。それらも素晴らしいけれど、ふとした時に足が向き、店を出た後に「明日もまた頑張ろう」と思える。そんな心に寄り添う一軒がある街こそが、私にとっての「通いたくなる街」。
古書とカレー、学生たちの活気。神保町という街は、どこか懐かしさを残しながらも、新しい才能を拒まない懐の深さがある。果たしてこの街は、私にとって「何度も通いたくなる街」になるだろうか。その答えを探るため、一軒のレストランを訪ねた。
神保町駅から徒歩すぐ。コンクリート打ち放しのモダンな空間に、わずか10席のU字カウンターが鎮座する。その名は「restaurant Kiro;」。

扉の向こうは、外の忙しさをふっと忘れさせてくれる別世界。コンクリートの無機質な質感と、手元を優しく照らす暖色のライティング。そのコントラストが、座った瞬間に「これから何が始まるのか」という心地よい緊張感を演出する。

この店は、独立を目指す若き才能に2年間という限られた時間を提供するインキュベーション型レストラン「10COUNTER」の第2章として幕を開けた。
プロジェクトの発起人は、耐震補強を専門とする株式会社キーマンの片山寿夫社長。同社は、神保町にある築約50年のビルを「古い建物に新たな命を吹き込む」というビジョンのもと、シェア型複合施設「REDO神保町」へとリノベーションした。その1階に、若き才能を支援する「10COUNTER」を配したことには、建築会社ならではの深い意味がある。
神保町は、古いビルや文化を大切に守り続けてきた街だ。キーマンは自社の技術で街の歴史を支えつつ、その内側で未来の才能を育てることで、街に新しい循環を生み出そうとしている。「お客様や街の人と一緒にシェフを育てる」というこの仕組みは、新しい文化を温かく見守る懐の深い神保町だからこそ、成立する物語なのだ。

現在ここでタクトを振るうのは、2000年生まれの天間拓海シェフ。新富町の名店「coulis」で培った自由な発想と、実家の畑で土に触れてきた経験を武器に、25歳の感性を皿の上に爆発させている。

店名の「Kiro;」は、一日の終わりの「帰路」から名付けられている。そこには、「今日を振り返り、明日が楽しみになるような帰り道に、ふと『また行きたいな』と思える温かな記憶を添えられたら」というシェフの優しい想いが込められているのである。

最後に添えられた記号の「;(セミコロン)」は、ここでの食体験がひとときで終わるのではなく、「ゲストの有意義な未来へと続いていくように」という若きシェフのまっすぐな祈りの印だ。

コースの始まりからデザートまで、Kiro;で供される料理には、若き感性が捉えた「素材の最も輝く瞬間」が閉じ込められている。カウンター越しに繰り広げられる調理のライブ感。音、香り、そしてシェフの所作。そのすべてが、期待を確信へと変えていく。
ふきのとうのアイス ——ほろ苦さと甘美な香りの序章

最初の一皿は、春の息吹を感じさせる「ふきのとうのアイス」。パセリのチュイルとふきのとうパウダーを纏ったタルト生地が、アイスの冷たさと溶けあう。野性味のあるほろ苦さを優しい甘みが包み込み、食欲を一気に呼び覚ます「目覚め」の一品だ。
新玉ねぎのポタージュ ——糖度の限界に挑む優しさ

トッピングされたカカオニブのカリッとした食感と、仕上げのオリーブオイル。このふたつのアクセントが、野菜のスープをまるで奥行きのある上質なデザートのような、驚きの味わいへと変化させている。
宮崎津本式 ブリのカルパッチョ ——熟成の技が光る海の幸

「津本式」で仕立てた宮崎産のブリ。適度に熟成され、旨味が凝縮した身の柔らかさは圧巻。豆腐のムース、自家製ネギマヨネーズ、大根のピクルス。柚子の香りがレイヤーとなり、ブリの脂の甘みを美しく際立たせる。
スペシャリテ:サラダ -産土(うぶすな)- ——30種の命が響きあう風景

Kiro;の象徴と言えるのが、この「産土」。全国の生産者から届く30種類以上の旬素材が集結するこのサラダは、あるものは素揚げで香ばしく、あるものはボイルで甘みを。一皿の中で温度と食感が目まぐるしく変化し、まるで森や畑をそのまま食べているような、生命力に溢れた体験を届けてくれる。
湘南みやじ豚 肩ロース ——赤ワインとチョコが紡ぐ濃密な余韻

メインは、湘南のブランド豚「みやじ豚」の肩ロース。丁寧な火入れにより、ピンク色の断面からは肉汁が溢れ出す。赤ワインとチョコレートを合わせたソースは、チョコのコクが豚の脂の甘みと共鳴し、五感を満たす濃厚な味わいへと誘う。

落ち着きのあるモダンな店内は、大切な人とのデートやお祝い事、あるいは自分自身をリセットしたい日に最適。10席という限られた空間だからこそ、シェフやスタッフとの距離が近く、細やかな気配りが届く心地よさがある。
食事を終えて、駅まで歩くわずかな時間。ふとした瞬間に「美味しかったな」「明日もまた頑張ろう」と、自然に心が温かくなる。そんな温かな余韻こそが、Kiro;が提供する最高の付加価値に他ならない。

この店には、単なる「味」以上のものがある。作家の手による器の温もり、シックでありながらどこか安らぐ空間。それらが私の日常にそっと寄り添い、いつでも私を受け入れてくれる。そして同時に、瑞々しい感性が生み出す料理が、小さな刺激を与えてくれるのだ。
そんな特別な時間を過ごせる場所だからこそ、私はここに通いたくなる。
さらに言えば、この場所には「2年間」という限られた時間しか残されていない。2年という期限があるからこそ、一分一秒を惜しむように磨き上げられる一皿。そんな「今、この瞬間」にしか出会えない熱量に触れるたび、私の日常がまた、少しずつ特別な未来へと書き換えられていくような予感がするのだ。
「Kiro;」という帰るべき場所を見つけた今、神保町の街は私にとって、なくてはならない大切な居場所のひとつになったと言える。
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