ライブ感のままに、今現在の又吉直樹の心象が小説化された『人間』。この回では、彼の『火花』にも通じる「自分は何者か?」という葛藤や、自分の中の幸福感のありかについて聞いてみた。
ちなみに僕らのメディアの読者って、30代前半が多いんです。
(弊誌フリーペーパーを手に取り眺める)
『人間』では、20代前半の青春編の後、ジャンプして38歳になって過去を振り返ります。先ほど又吉さんは「全部出し切った」とおっしゃったのですが、僕の想いとしては、もう1作、作っていただきたいなと思ったんです。
というと?
38歳の結末、何かの境地に至るまでの30代前半の葛藤にも又吉さんの物語があるんじゃないかと。
なるほど。何となく僕の予想では、(小説『人間』の中で起きた)20代のことは、平気なふりをして、致命傷になりかねない傷やから、振り返っているともう立ち上がれない深刻さがある。だから、一旦蓋して、絆創膏貼って、ジュクジュクの傷を隠してるみたいな状態で、それを一回忘れて仕事に没頭するみたいな時期が30代前半なんだと思います。
30代前半は、20代で処理しきれかなった葛藤があって、それも抱えながらも「出来ること」に邁進していたんでしょうね。ある程度仕事慣れしてくると自分でもできることは増えてくるから、「やりたいこと」や「なりたい自分」を脇に置いて、ひたすら「できること」に向き合っていく。それって決して悪いことじゃなくて、むしろ周囲の期待に応えることにつながるわけで、精神的にも経済的にも「自分にできること」の追求には意味も価値もあるとは思うんです。
で、38くらいで仕事はこなせるようになってきてある程度の自信がついたときに、「あれ、最初にやりたかったことって何だっけ」とか、「あの傷をそろそろ直視してみよう」とか、「カサブタになってるかな」とか。
やっぱりそこまで時間が掛かるわけですよね。
そうですね。
「やりたいこと」や「なりたい自分」を規定してくれるような「自分が何者であるか?」という葛藤って、誰もが一度は悩む普遍的なテーマではあるんですが、改めて又吉さん自身、「何者であるか」とどう向き合えばいいと思いますか?
何者かである必要はないっていうのが、今のところの僕の考えかなという気はします。子供の頃って、急に何か巨大な力みたいなものに「お前は選ばれました」と言われ、スーパーパワーを手にして世界を救う存在になるかもしれないとか、みんなそういうことを思っちゃうじゃないですか。
ありますね。確かに。
だけどどうやらそんなことはないなとか気付くわけですよ。僕はサッカーをやってたんですけど、サッカーでも同世代で中村憲剛さんとかがいて、「あぁ、僕はこの世界の主人公ではなかったな」と確定するじゃないですか、一旦。
「挫折」とまではいかないけれど、少しの絶望を感じますよね。なりたいものになれない現実って。
高校生までは「何者かになれる」と思っていた。でもその「何者」って、めちゃくちゃスーパーな人たちを見て、自分を重ねているわけですよね。そのギャップって年を取ると「そりゃそやろ」って思えるんですけど、そのときはその現実を受け入れるのは難しいというか。
でも、遅かれ早かれ「そんなに甘くない」という現実に気づいてきて、それでも頑張るのか、どこまで頑張ればいいのかを悩む。そのうち結果がすぐ出ないことに苛立って、頑張り方すらわからず絶望してしまうこともある。
『人間』の20代編でもそうなりますしね。じゃあ俺、何なんやろってなったときに、だんだん自分の好きなこととか自分の幸福度とかを高めていくっていう方向に意識が向いていくんじゃないかと思います。
む。「自分の幸福度を高める」って、良い言葉ですね。ずっと高い山の頂上だけ見てきたけど、今登っている自分自身や周りの景色を見渡してみると、頂上に行くことだけが幸福じゃないと気づく、みたいな。でも、その境地に至るのも簡単ではないですよね。
自分自身を見つめるというより、僕の場合は、そういう幸福度の高い先輩が周りにいたんですね。真心ブラザーズのYO-KINGさんとかも作品に対していろんなものを背負ってるんでしょうけど、全然負荷がかかってないように見せられるし、できちゃってるっていう。あぁいうのを見ると、そういうほうがええなって(笑)。
作品にかける想いや理想があって、一方で、周囲の期待や評価を受ける立場にいるとなかなか自然体ではいられないですよね。
それに、僕の場合は結構な“気にしい”なんですよ。中村文則さんという小説家がいるのですが、中村さんの書く登場人物に、僕すごく共感できるんですね。思い悩み方の暗さが10代とか20代前半の自分と重なるんです。
『土の中の子供』で芥川賞を取られた作家さんですよね。
中村さんにお会いすると、すごく明るくて優しいんですよ。酔っ払ったときに質問してみたら「もう自分が暗いことで人に迷惑かけるのやめよって思った」って。それを聞いたときに、「最強の気にしすぎ」だと思いました(笑)。それに比べたら僕は全然気にしてなかったなって思い、YO-KINGさんと中村さんって両極端かもしれないですけど、それぞれのやり方でそれぞれのスタイルを確立させてるなって。それなら自分は自分のやり方でいいかっていうのが見えてきたというのはありますけどね。
作品に込める想いと普段の立ち振る舞いにギャップがあるとしても、「自分のスタイル」が確立されていれば精神的にも安定するというのはすごく共感できます。仕事においても仕事を引きずらないというか、自分との適切な距離感を持って、それこそ客観的に自分の仕事を見つめ直す冷静さがあればもっと楽だし、仕事自身のクオリティも上がっていく気がするんです。自分の好きなことやスタイルがあったからといってすべてがうまくいくわけではないですけどね。あ、グチみたいですみません(笑)。
でも、それがわかってるのは良いことやと思いますよ。
今回の主人公は、自分なりの表現をしたいのだけどもできなくて、それが実家の生活の「表現者とは異なる人たちの世界」に回避して、何かを回復して戻ってくるじゃないですか。人の幸せって何だろうなっていうときに、表現をしていること自体が苦しめている気がしていて。表現をするという職業自体が、普通の人たちよりも苦しいことなんじゃないかと思えてきます。
僕はそれを客観視できるようになったときにちょっと楽になりましたね。自分で芸人やる言うて上京してきたわけで。進学する方法もあったし、大阪で就職することもできたし、勝手に芸人やるって出てきて上手くいかんくて悩んでるって、むちゃくちゃアホやなって思ったんですよ。もうちょい楽に、自分で選んでるってすごく面白いことなんじゃないかって思うようにはなりましたね。
人生は選択の連続と言いますが、「自分が好きなこと」に自覚的であれば、苦しさも自分の選択の結果として受け入れられるってことなのかもしれません。やっぱり、どんなときでも「好きなこと」「やりたいこと」と向き合っていくことが大事なのかもしれませんね。
芸人のような、コントや創作を世間に発表したりする「表現者」ならではの葛藤の話に過ぎないなら、彼の小説がこんなに多くの人を惹きつけることにはならないだろう。誰しもが、「なりたい自分」と「やりたいこと」に向き合う中で、その葛藤の先にある「幸福感のありか」を探している。『人間』は、そんな「等身大の僕たち」を描いてくれているのだと改めて思う。さて、次回はネットやSNSでの立ち居振る舞いについて。
スタイリスト:オク トシヒロ
ヘアメイク:中村 兼也(Maison de Noche)
写真:岡祐介
撮影協力:MONKEY GALLERY D.K.Y.