そもそも「詩」とは、なんだろう? 「詩」について知りたいと思ったとき、まずはそんな疑問が湧いてきた。たった数行の言葉が心を揺さぶるのはなぜなのか? 俳句とも短歌とも、小説とも違う「詩」だけが持っている魅力とは何なのか? そこで、詩人の文月悠光さんに話を聞いてみることに。文月さんは、10歳から詩を書き始め、18歳で中原中也賞最年少受賞詩人として一躍脚光を集めた、現代詩人を代表するひとり。まずは、「詩」とは一体何なのか、文月さんの解釈を伺うとともに、「詩」が身近でない理由や、「詩」だけが持つ魅力について聞いた。
まず、教科書的な詩の話から聞いてみよう。例えば、詩を「短い言葉で自由に書くもの」と定義するならば、散文も同じということになってしまう。「詩」が「詩」と成るためには、一体何が必要なのだろう。ルールや条件があるのかと聞いてみたところ、文月さんの答えはNO。「詩は自由が故に、形が無数にある」のだと言う。
「短歌や俳句であれば、韻律やルールが決まっています。しかし詩(自由詩という形)は何を書くかも、どのように書くかも自由です。じゃあ散文と詩はどう違うのか、と考えてみると、言葉による光の当て方が異なります。
文章というものは、基本的に起承転結があって、原因と結果の因果がしっかり結びついている。つまり情報伝達のための言葉だと思うんですね。一方、詩は、原因と結果の関係性が曖昧で、問いかけに対して回答がないまま終わるも作品も多い。言葉の意味を伝えることよりも、音の響きやリズム、改行の位置など、意味以外の表現に、よりフォーカスが当たっているんです」
「使う言葉一つひとつの密度や厳密さも大きく違う」と、文月さん。
「詩を詩として成り立たせているのは、詩人それぞれの言葉の選び方や使い方にあると思います。言葉を選ぶときの決まりや理由があるようです。私自身も、エッセイでは普通に使う言葉を、詩では使わないことがあったり、熟語や観念的な言葉をなるべく使わないようにしたり。そうした個々のこだわりが、個々の詩の形を作っているのです」
「詩は特定のルールも決まりもないからこそ、難しい」と、文月さんは言う。韻律や形の決まっている俳句や短歌は、ひとつの読み方を覚えたら、他の作品にもそれが応用できるが、詩人それぞれによって形が異なる詩はそうもいかない。そのため読み解くことに難しさを感じてしまうというのだ。
実際、詩についてのアンケート調査を行ったところ、「日常的に詩を読まない」理由として、最も多い答えが「難しい」だった。意外なことに、詩人である文月さんも詩にはとっつきにくさを感じていたと言う。
「私も多くの人と同じように、詩との最初の出会いは国語の教科書でした。だから、詩とは、普段私たちが生活しているなかで触れる言葉とは全く違うもので、自分とはかけ離れた偉い人の言葉なんだ、と子どもの頃は少し遠く感じていました」
小説や散文、ニュース記事やSNSのちょっとした文章など、普段、私たちがよく触れる文章というものは、基本的に起承転結があり、意味や答えがある。つまり、言葉は情報伝達のためのツールだと認識している。しかし、詩にはそれが当てはまらない。慣れ親しんできたはずの言葉が、まったく理解できないものとして目の前にある。この意味も答えもない言葉の羅列を、どう読めばいいのか。私たちは戸惑ってしまうのだろう。
「『全部をわからなきゃいけない』と思うことが、プレッシャーになってしまうのかもしれない」と、文月さんは分析する。
「先ほど話したように、ごく小さい頃は詩に距離を感じていたのですが、10歳くらいから詩をたくさん読むようになり、徐々に詩の表現が身近になっていきました。そうしたなかで自分なりに決めたことがあって。それは、わからなくてもまず読み進めてみるということ。そうすると、気になる言葉や、今の自分にとって必要だと感じる1行に出会えることがあるんです。それだけでも十分その詩を“読めた”ことになると思うんですよね」
日々忙しく、限られたリソースの中で生きる私たち現代人。それゆえ効率や速さ、つまり「わかりやすさ」が重視される今の時代に、それでも「わからない」に向き合うことに意味があるとすれば、何だろう。文月さんはこんなふうに提案してくれた。
「詩は、基本的に自分ではない他者が書いた言葉なので、理解できない表現だってあるでしょう。でも、それを『わからない』と切り捨ててしまうのはやはりもったいない気がします。特に、今は情報や外部への発信向けに作られた言葉が氾濫しています。情報の言葉に疲弊したとき、詩の声に耳を傾けてみると、自分が気づいていなかった感情を、詩の言葉がすくい取ってくれたり、勇気づけられたりすることがあるんです。そして、個人のささやかな言葉が、こんなにも強度や面白さを持って伝わるという事実に驚きます」
「詩は個人のささやかな言葉」。そう思うと、それまで遠く感じていた言葉が少し身近になるような気がする。
「本当は誰もが、自分の中に詩になるものを持っていて、それを表現する回路さえ持てば、詩を書くことができると常々思っているんです。詩という『未知に触れること』を恐れないでほしい。それは、多様な人と社会生活を送る上での、大切なヒントになり得るのではないでしょうか」
文月悠光/ふづき・ゆみ
詩人、武蔵野大学客員准教授。1991年北海道生まれ。16歳で現代詩手帖賞を受賞。第1詩集『適切な世界の適切ならざる私』(ちくま文庫)で、中原中也賞、丸山豊記念現代詩賞を最年少18歳で受賞。第4詩集『パラレルワールドのようなもの』(思潮社)で富田砕花賞を受賞。2025年2月に、新詩集『大人をお休みする日』(角川春樹事務所)を刊行した。
撮影:西谷玖美