HOME WELL BEING STAY HOME AND GET READY いつかのためにいまできること コロナ禍が奪った僕らの人生にとってかけがえのないもの/島崎昭光
コロナ禍が奪った僕らの人生にとってかけがえのないもの/島崎昭光

VOL.1 コロナ禍が奪った僕らの人生にとってかけがえのないもの/島崎昭光

今、この状況で、僕らは何を“失っている”のだろう? 実は、ちょっとよく分からなくなっている。 Harumari TOKYOは、オフタイムや週末の過ごし方を提案するメディア。「おでかけ」という選択肢を奪われたことで、提案したいトレンドの半分以上は無くなった。それなのに日々のリサーチで上がってくるネタの総量は変わらないし、更新する記事はむしろ増えている。

「不要不急」の外出をしなくなったことで、外食、店舗での買い物、旅行・観光といったサービス業、そしてイベント、映画鑑賞、ライブ鑑賞、アート鑑賞、観劇といったエンタメ産業が大打撃を受けている。

でも、外食の代わりにテイクアウトの情報や便利なツールを紹介できるし、アパレルや雑貨ブランドのオンライン販売のニュースも続く。世界の観光地はオンラインで楽しむコンテンツを提供してくれている。小劇場を救おう、映画館を救おう、クラブを救おうという呼びかけの下、著名なアーチストたちがオンラインでこれまでにないほどの豪華なパフォーマンスを披露してくれている。

店舗はなくなってもアパレルはなくならない。映画館がなくなっても映画はなくならない。ライブハウスはなくなっても音楽はなくならない。IT化でタッチポイントは変わったけれど産業自体がなくなるわけではない。コロナ禍で、改めて産業構造の劇的な変化を実感するし、それが加速している現象を目の当たりにしている。逆に言えばネットが普及していない20年前にCOVID-19が流行したらどうなっていたのかと想像すると恐怖でしかない。

さて、改めて考える。僕らは今、何を失っているのか?

 

■コロナ禍はずっと終息しない

素人目にみても、5月中に緊急事態宣言が解かれたとしてすぐに世界が元通りになることはないだろう。予防としてのワクチンは開発されて1年後、世界的に予防接種が浸透するのはさらにその先だ。ソーシャルディスタンスの意識は感染者数が減って外出できるようになってもしばらくは続く。

うちの会社もテレワークが2ヶ月続いているけど、いまさら対面で打ち合わせするってなったらちょっと緊張するかも。おそらくマスクは屋内でもつけているだろうし、どうせならテレビ会議でいいんじゃないかと言うスタッフもでてくると思うし、僕もそう思うだろう。

開店するレストランは席の間を広くするだろうし、空港に向かえば、これまで以上に発熱チェックなどの検疫が増える。ライブやフェスもモッシュピットなんて御法度、みんなマスクをつけることを条件に開催されるようになるのかも知れない。そうやって、ソーシャルディスタンスを継続しながら経済活動を再開していく。

一般の風邪をもたらすコロナウイルス並かそれ以上にステルスな感染力を持ち、インフルエンザ以上に重症化のリスクがあるCOVID-19の脅威は、ワクチンが出来ても、特効薬ができても社会のオペレーションはこれまでどおりじゃないかもしれない。

インフルエンザで学校を休校させる措置のように、突発的な流行が起こればお店の休業やイベントの中止・延期といった措置が頻繁に起こるようになっていく可能性はある。ましてCOVID-20?みたいな新たなウイルスの脅威はこれからもずっと続く。

 

■ポストコロナはもう始まっている

コロナ禍の後、世界は変わる。少なくともこの異常事態がおそらく1年以上は続くとすればすでに「今まで通り」ではない。だとすれば、今の時点で、嵐が過ぎ去るのをじっと待つというだけでなく、この事態に適応したほうがいいし、コロナ禍終息後の世界に向けて動き出すなら、明日からではなく、今からだと思うのだ。

メディアに従事している僕の仕事で言えば幸いに忙しくさせてもらっているけど、サービス・エンタメ産業の方の多くは仕事を奪われているし、そうした産業ではなくても、テレワークが進んで通勤時間がカットされ不要な残業も減っているであろう今の状況なら、多くの人が自宅での可処分時間が増えているはずだ。

実際、インターネットのトラフィックは尋常じゃないくらいに増えているし、SNSでは目覆いたくなるような悪意や、焦燥や、欲望といった人間の業にあふれかえっている。みんな不安だから情報が欲しいし、でも雑多な情報が入り交じったネットの世界では分からないことがもっと分からなくなったり、短絡的に理解した事柄が翌日にはひっくり返されたり、ネットを見れば見るほど疲弊していく。そろそろスマホから手を離した方がいいんじゃないか、と思う人も増えているだろう。

だからこの時間を「自分を見つめ直す機会」としてポジティブに捉えてみる人もいる。こういう未曾有の世界に陥った時こそこれまで蓄積してきた経済的、精神的余裕がものをいうだろう。それがある人でも、その余裕を枯渇させないために自分がこれから何をすべきか考えているだろうし、余裕のない人たちは焦燥と絶望に駆られ、それでもこの窮地を脱するために自分に何が出来るかを考えている。

いずれにせよ「自分で生き抜く力」を意識せざるを得ないし、そんな自分にとってできること、やりたいこと、そして幸せとは何かを考える方向に向かって行っている。

 

■それで、何を失っているのか?

自分を見つめ直すためには、まずは自分を取り巻く世界の現状認識が必要だ。いま世界は変化しつつある。どう変化しているのか、これからどこに向かうのか、そして変わる世界の中で自分はどこにいるべきなのか。

しつこいが、変わっていく世界の中で僕たちは何を失うのか。

映画館がなくなってもネットフリックスがあるじゃないか。ライブハウスがなくなっても、LINE LIVEがあるじゃないか。そうなんだ。そうなんだけども、それじゃあ、映画館とかライブハウスというただのハコが消滅するだけなのかというと、僕の心の中にある喪失感はそんなに小さくはないのだ。では、その喪失感や危機感の本質はどこにあるのか?

たぶん「産業=ビジネス」の話をしたいんじゃなくて、文化の話をしたいのだ。失われつつあるのは、ライブハウスや、劇場の「文化体験」が失われることなのだ。

でも、それが大きなことなのか些細なことなのかは個人の志向と感性によってばらつきがあって、だから大きな危機意識のムーブメントになりにくいし、顕在化しにくいのだろう。というのも、それらのコト消費的文化体験が、実際のところマイノリティーになっているし、少なくともいまの日本のシステム上は、ビジネスに直結してしまう(芸術家に対して国庫が潤沢な資金を提供して自由に創作する環境を作ってくれないという点で)。

では、もうすこしサイズ感の大きな話にきりかえよう。不要不急の外出が自粛され、これ以降もフィジカルな接触や密集に対してネガティブな意識が働く世界がやってきたとき、ねぶた祭は開催できるのだろうか?スポーツ観戦も無観客でテレビだけになるかも知れない。

少なくともこれまでのように何万もの人間が組んず解れつワーワー!みたい行為は減っていくし、できたとしてもタブーとして受け取られるのかも知れない。僕らはこうしたコト消費も失う、という話になれば、どうだろうか?

 

■「時空を共にする」という体験

「アウラ」という言葉がある。ヴァルター・ベンヤミンというドイツの哲学者がいて、彼の思想は僕のメンターでもあるのだけど彼の著作『複製技術時代の芸術』の中にこの言葉がでてくる。

アウラとはざっくりいうと、「この時」「この場所」「この文脈」「この人たち」を1回限りで共有するオリジナルな芸術作品やその体験のことだ。そして、複製技術、つまり印刷が可能になることで芸術作品はたくさんコピーをつくることができるようになって、より多くの人が、いつでも好きな時に作品を観る・体験できるようになる時代がやってくる。そうなれば再現性もないし多くの人と共有できないアウラの価値は相対的に低くなるし、みんなは複製芸術を楽しむ方向に向かっていくという話。

印刷どころか、デジタルの時代になってこの状況は加速して芸術の形式はどんどん進化して行っていることは自明だ。音楽も、そもそも映像というものも複製芸術だし、オンラインライブはそのときだけの1回性はあるけれど、物理的に同じ場所にいる必要は無い。

でも、このアウラというのは現代でもしぶとく残っている。むしろデジタルの時代になってその価値が再評価されているようにも思う。空前のフェスブーム、お祭りブーム、ハロウィンの季節になったら狂ったように街に出る人たち。ラグビーワールドカップの時だって、自宅のテレビで観てればいいものを、こぞってライブビューイング会場にあつまってみんなで熱狂していた。これもある意味アウラの一種だ。

「この時」「この場所」「この文脈」「この人たち」をいっぺんに、1回きりで共有する、つまり「時空を共にする」という体験は、たぶん、どれだけコピーやオンデマンドの技術が発達しても人間の本能的な欲求の中にあるのではないかと思う。そして、コロナ禍によって、これが失われるのだとしたら?

 

■人生にとってかけがえのない体験を奪われようとしている

「この時」「この場所」「この文脈」そして「この人と」1回だけ発生するかけがえのない体験が失われようとしている。そしてそれは芸術作品に限らない。

地元の小さな夏祭りに家族ででかけて歩いている時に、頬をなでる湿った夜風の感触とか、旧友と人生について語らっていた時に耳に残った居酒屋の活気のある雑音やかけ声とか、大好きなミュージシャンのライブでラストソングのイントロが始まった時の地響きのような歓声とかとか、およそ「思い出」として脳裏にストックされているのは、「あの時」「あの場所」「あの流れ」「あの人」と共にした時空の中で研ぎ澄まされた五感の記憶なんじゃないだろうか。複製可能な配信ドラマをみて感動することはあっても、その情景を覚えていることは少ない。やっぱり、「時空を共にする」って人生においてとても重要な価値を持った体験なのだろう。

だから、ライブハウスも劇場もお祭りも大小問わずできるだけたくさん残って欲しいと思うし、それが誰かにとってたった1回でも人生の糧になる思い出をつくってくれるのだとしたら、その機会を失うことはとても悲しいことなのではないか。そう、コロナ禍は誰かの人生にとって大切なものを奪おうとしているのだ。ライブハウスや小さな劇場の存在がビジネス的に不要という理由だけで淘汰されてしまってはならないし、それらを救おうと必死になって声を上げている人の気持ちや危機感は、実は誰でもが共感できるはずなのだ。

 

■STAY HOME AND GET READY

結局、Harumari TOKYOは、「おでかけ=アウトドア」と「おこもり=インドア」の2つの側面というよりは、「個人的体験」と「時空の共有体験」という2つともかけがえのない文化体験を持って、知性と愉しさに溢れた毎日を提案してきているのだと改めて感じる。

そして、その大切な1つの側面が失われようとしている時にメディアとして何が出来るのか?それを考え、実行に移していく。いまはSTAY HOME、自宅でリサーチし、取材し、原稿をまとめ上げながら、多少の制約があっても人が集まり、時空を共有できる機会を提供してくれるコンテンツが再び登場すれば、応援もするしその魅力を分かりやすく語っていく。そのための準備を怠らないようにしようと思う。それが僕らのGET READYだ。時空をともにするというかけがえのない文化体験にあらためてリスペクトし、その魅力を発信しつづけること。

「STAY HOME AND GET READY-いつかのためにいまできること」

今回の特集では、それぞれにとってのGET READYがある中で、自宅でじっとしている状況をどう捉え、明日へ向かって何に取り組んでいけばいいのかを考えてみる機会を提供したかった。これまで取材を通じて懇意にさせていただいた方々に緊急取材・アンケートを行い、多くの方の声を集めることが出来た。毎日更新される様々なGET READYを読みながら、自分を見つめ直し、みなさんにとってのそれぞれの明日を考え、行動するきっかけになればこの上ない。

明日は夏木マリさんのSTAY HOME AND GET READYをお届けしよう。